Tuesday, November 30, 2010

ブログ vs 珊瑚

「ブログやってるから、見てね〜!」


っていう会話は、私にとってはとてもNewな会話。


でも、お友達はもう5年もブログ書いてるって言ってるし、
そういえば、会社勤めしてたとき(1994年から1999年)、
同僚で、なんか書き物(ブログ)やってる人居たなー、って思うと、
15年???


昔は、人のエッセイ集を本屋さんで、買って読む、
っていうのが、今の、ブログになってるのかな?




私も実は、2007年の10月に、一度ブログを始めてるんです。
英語と日本語で。


でも、2回書いたのみで、3日坊主どころか、2日くじけ。
子供が、4歳、2歳、6ヶ月、という年齢で、とてもじゃないけど、
時間がなかったんですね。 というのが言い訳です。


でも、今回、またブログやってみよう、って思ったのは、
カナダでケータリングをやっている、お友達のブログ
おかげ。(お弁当屋さんの日記


このお友達のブログが、また面白いんです!
お弁当屋さんの日記、のはずなんだけど、話がズレるズレる。


スケート研究家の日記って言っても良いくらい、
スケートの話がすごく詳しく載っていて、
日頃思ったこととか、飾り氣無しに書いているのが、
面白いんです。


とにかく、もう一度、トライしてみよう!と思い、この2010年10月に
初めて見たら、(最初は英語のみだったのですが)、書くことの面白さに
はまってしまいました!


実は、私の父、この前33回忌を迎えたのだけど、
私が産まれるずっと前から、ブログっぽいことやってたんです。


私の父は、私が4歳半の時に、不慮な医療ミスで命を失っている
のだけど、なぜ、私がこんなに父のことを知ることが出来たかっていうと、
「珊瑚
のお陰なのです。


父は、大学時代の仲間達と、月に一回、「珊瑚」
という題名の、月刊誌を出していました。


父が大学を卒業したのは、計算も出来ないくらい昔の話。(私算数苦手なんです)


柔道部の仲間達と近況報告をしあう方法が、
「珊瑚」
だったそうです。


年に一回、まとめ役を決めて、仲間達が月に一回、何かその月に
思ったことや、近況を書いて、まとめ役に送り、まとめ役はそれを人数分
コピーして、全員に送付する、というのが、
「珊瑚」


(これって、いまでいうブログみたいなもんですよね〜?)


でも、39歳にして他界してしまった父は、その珊瑚にも多分15年くらい
しか投稿することは出来なかったのだと思います。


その珊瑚は、つい数年前まで毎月休みなく続き、500回記念を持って、
終了になりました。


なぜ、珊瑚が私の父への理解を深めてくれたかというと、
父の仲間たちが協力して(多分、母も協力したのだと思うけど)、
珊瑚がの投稿が始まってから、父が亡くなる直前1975年の6月
までの、父が書いた部分の珊瑚の投稿を、すべてかき集めて、
本の形にし、一周忌の追悼集、題名『夭折』にしてくれたのです。


ちなみに、『夭折」って、ようせつ、って読むんですが、
若くして他界する、という意味なんです。 悲しいけど、きれいな
言葉ですよね。


一周忌の時は、まだ5歳の私、そんな難しい本なんて、読めないし、
興味もなかったけど、いつも自分の本棚には置いてありました。


やっと中学生になり、その追悼集を開いても、まだ読めない。
っていうか、読んでいても楽しくない。 絵本じゃないから。


高校生になっても、やっぱりまだ読めない。
なんというか、大人の視点での文章なので、読んでいても
全く理解が出来ないんです。


大学生になり、長崎から東京に出たとき、お守りのように持っていったのは、
「夭折」。


父は、柔道をすごく頑張っていたらしく、右腕を骨折した時には、
右腕を使わないでいい技に挑戦して、その技のエキスパートになったとか、
という話が「夭折」に載っていて、当時東京女子体育大学で、下手っぴながらも
体操競技で、血と涙の猛訓練に励んでいたころなので、
「私だって、父の血を継いでいるんだ!」って気持ちで、頑張れたのも
「夭折」のお陰でした。
だんだんと、「夭折」の中の父と、自分の年齢が近づいて来て、
「夭折」が読めるようになってきたのはこの頃です。


そして、就職し、毎日残業、飲み会、などなど、忙しい日々を過ごしたあと、
1999年に、カナダにやってきました。


カナダを選んだのは、父が当時勤めていた三菱商事から、モントリオールでの勤務が
あり、海外勤務中に、私が産まれたそうです。


母曰く、私は "Made in NewYork, Born in Montreal" ってことで、当時は、
なんのこっちゃ、わけもわかりませんでしたが、大人になってみると、
「は〜ん、そういうことか。」という感じです。


ということで、戸籍謄本などには、必ず
「モントリオールにて生誕」と書いてあるので、カナダでの記憶は全くないものの、
産まれた国に言ってみたいなぁ、というのは昔からの夢だったのです。


話が元にもどって、1999年にカナダ、BC州にやって来て、
話がどーんと飛び、結婚し、子供が生まれ、また子供が生まれ、そしてまた子供が生まれ、
5人家族になりました。


もちろん、「夭折」は、いつも私のそばにあり、その頃には、もうボロボロになり、
表紙ははがれ、輪ゴムで巻いていないと、中身が出て来てしまうようになっていました。


ある日、子育てで、疲れているときに、なんとなく「夭折」に手が伸び、
「あ、久しく読んでないよなー。最後に読んだのいつだっけ。相変わらず、難しくって、読み終わる前に、寝ちゃうんだろうな。」
なんて思いながら、読み始めたら、


読める。
わかる。


感動でした。
カナダのことが書いてあったり、モントリオール勤務時代のことが書いてあったり。




よく考えると、それを書いた当時の父の年齢を、
私は超えていたのです。


そして、遅ればせながら、やっと、どうして、母と父の勇士達が力を合わせて、時間をかけて、わざわざ「夭折」を出版したのか、がわかったのです。
私たち、娘3人に、父がどんな素晴らしい人だったか、伝えるために、じゃないかと、
やっと気づいたのです。30年も経ってから。




私も自分のこと、書いてみようって思いました。


自分の子供達が、大きくなって、私のブログを読んで、楽しんでくれるかなー、
なんて思いながら、いつも書いてるんです。


父も、母も、文章がとても面白かったので、私も書けるんじゃないかなー、
なんて思いながら。

靈氣の練習会

2010年 10月28日

さっき、靈氣の練習会から帰ってきました!


もう、気持ちいいったら。。。


こんな気分で帰って来て、コンピューターの前に座るのは、
もったいないけど、やっぱりこれ書きたい。

練習会では、マッサージテーブルを2、3台準備します。
1人が、横になり、2〜4人がその人に手を当てます。
15分ずつで、みんなが終わるまで交代します。


これ、靈氣Shareっていって、
靈氣を分かち合うって、感じなんです。


これがまた、パワフルでねー。

たったの15分、2〜4組の手が、体に触っているだけで、
こんなに落ち着いて、平和で、いい気分になれる靈氣って、
すごいんです。


これは、 Amethyst Book Store という、素敵な
本屋さんで、行われている練習会の模様。










というバンクーバーで行われている練習会の模様。



たいてい、最後は、輪になって、色んなお話をして
終わります。




この練習会、私が2年くらい前から、2008年くらいかな、
始めました。
気がつくと、もう3年になるんですね!

2007年に直伝靈氣の師範格になり、直伝靈氣を教え始めました。
これは、ほんとに人生の分岐点でした。


でも、ちょっと大変だったんです。

私の先生の、山口忠夫先生は、京都に住んでいます。
日本とカナダの文化の違いがあるし、
自分の先生が近くにいないまま、自分が先生になるって、何かと
大変で、工夫が必要でした。
いっぱい、ミスもしたし。


だから、私が先生になったときには、先生としてなるべく
受講生さん達のそばに居れる先生になりたいと思ったのです。
そうすると、受講生さんたちにも、靈氣の本来の姿を理解して
もらえるだろうなと思って。

でも、練習会をするのは、これだけが理由ではありません。


練習会では、私だって靈氣を受けることが出来るんです〜!。

私、靈氣を教え始めてから、私に靈氣をしてくれますかって
頼むことが、なんとなく出来なくなって、
靈氣は、毎日するのだけど、受ける機会が全くないんです。


でも、練習会を企画したら、靈氣が受けれる!
という、まったく自己中心的な理由も一つなんですね〜。

ま、でも、靈氣を受けることも、学びの一つなので、
私も永遠の生徒として、たまには受けないとね!


カルチャーショック

小学校1年生の娘のクラスのお手伝いに行きました。


の工作があるので、大人の手伝いがいる
ということでした。


10月に入ると、町はすっかりハロウィンの
雰囲気でいっぱいです。


そして、10月31日のハロウィンが終わったかと思うと
次の日には、クリスマス雰囲気にすっかり変わるんです。


えー、まだ11月1日なのに、気が早いって〜!




日本の西の果てにある、長崎という小さな町で育った私は、
ハロウィンなんていう、ハイカラな西洋の文化は、カナダに移ってから経験しました。


家族を築き始めて、ハロウィンの内容を知り、長男が5歳くらいになるまでは、
出来るだけハロウィンへの参加を避けたい!という一心の時もあったのです。


なぜかというと、


ハロウィンの夜は、子供達は色んな格好に変装して、
袋やバケツを持って、近所を歩き回り、Trick or Treat で
チョコレートやキャンディーを、山のようにもらって帰ってくるのです!


ほんとに、山のよう。


ちなみに、これ、子供一人分。
3人子供がいる我が家は、これの3倍。
っていうか、こんなにもらうまで、歩き回るな、って感じなんですけど、
うちのダンナ、子供達よりも張り切って、子供たちが、
「足が疲れた〜っ。」
「もう歩けない〜っ。」って言うまで、
歩き回る、ハロウィンハードコア。



こんな感じなので、一回は、ハロウィンを避けるという理由も一つにあって、
日本への里帰りを10月の末にしたこともありました!


「ハロウィン、に行けない。」と気がついた長男(当時6歳)は、


大激怒。


ハロウィンって、子供にとっては、クリスマスやお正月くらい大切なのね、ってことがわかりました。


そんな大切なハロウィンを、親のエゴで楽しませないなんて、いけない、いけない!


ということで、私も多いに参加することにしました!


話を元にもどして。


娘の学校へお手伝いに行ったときは、びっくり!


かるちゃーしょっく!


クラスにいる生徒たち、みーんなコスチュームを着て、
授業を受けてる。そりゃー、ハロウィン近づいて、その日は、
コスチュームを着ていってもいい日、とはいえ、
これって、日本じゃありえなくない?


少なくとも、私が通っていた小島小学校では、あり得ない。
(っていうかさー、それ、30年前。)


でも、楽しかったんです!
小学校1年生の子供達が、色んなコスチュームを着て、
お勉強している姿。


小さな魔女が、ハリーポッターに
カボチャの飾り付けを手伝ってたり。


トイストーリーの、ウッディともう一人の魔女が
真剣にカボチャに飾り付けしてたり。

ウサギちゃんが、ニコニコしてたり。
私の娘です〜。


先生だって、魔女になって、お授業してます。

今年、里帰りして経験した
日本の一年生って、こんな感じでした。


同じ地区の子達、そろって、並んで、ランドセルしょって、
登校します。


夏だったので、水泳の授業がありました。
獄冷たいシャワーを浴びた後、ブルブルしながら、
自分の順番を待ちます。
子供達、このシャワーのこと、
「地獄のシャワー」と呼んでました。


くちびる青いって。



終わりの会は、こんな感じ。
息子、いてもたってもいられない。



日本とカナダの学校を見た私。


どっちも、いいとこいっぱいあります。




子供を子供で居させるカナダの自由なやり方も好きだし、




我慢するということを学ばせる、日本のやり方も大切ですよね。

Monday, November 29, 2010

お誕生日会

子ども達は、学校に入り始めてから、誕生日会への招待が
グンと増えました。


カナダには、ハロウィンやら、イースターやら、ウェディングシャワーやら、
ベビーシャワーやら、日本にはない風習があるんです。


私が子どもの時には、ハロウィンはもちろんないし、誕生日会も、
一回やったようなー、ってくらいで、あまり印象には残ってません。

っていうか、人の誕生よりも、命日の方のしきたりが
多くないですか?

ま、人の死は、次の人生の誕生につながるので、
とても大切ですよね。


よく考えると、日本って、お通夜があり、お葬式があり、
49日があり、1周忌があり、それから、3回忌、7回忌、
13回忌、33回忌、そして、50回忌でしめ。
(私の理解があっているかどうか。)


50年前になくなった方の魂を囲んで、
人々が集まるって、すごいですよね。



昔、友達が、
「おいの、ひぃじぃちゃんの50回忌のあっとばい。
50年前に死んどっとにさ、会ったこともなかとにさ、
なんで、集まっとやーって思うっさねー。」(by長崎弁)
って言ってたの、思い出します。


とにかくですね、
カナダで家族を築き始めたときに、この誕生日会って
どうしたらいいわけ?と思ったんです。
3人も居ると、招待も3倍。
誕生日会は、隔週の行事になっています。

もちろん、子どもがお友達の誕生日に招待されるのは、
とても喜ばしいんですよ。


最初は、ギフトのショッピングも楽しく、
カードやラッピング用の包装紙や袋を買い、
おもちゃを買い、ってしていると、かなりの金額を
使っていたりして、それでも良かったんです。


っていうか、他の子どもに費やすお金って、
なんで自分の子どもに費やすよりも楽しいんでしょうねー??



誕生会に行くと、必ず、子ども達が輪になって、プレゼントを開ける時間
があるんです。それを見ていたとき、

”これって、いいの?”と思いました。

"よくない。"

30分もかけて、子供達に書かせたカードの封筒は、ビリビリ
破ってあけられ、ポイっと横に山積みにされる。
きれいに包んだ包装紙も、ビリビリーって開けて、クシャクシャ、ポイ
おもちゃの、プラスチック部分は、リサイクルも出来ずに
ゴミ箱行き。(地球に悪いよなー。)


そうこうしてると、
「あ、しまった。あのこと同じおもちゃ、買っちゃったよー。」


"これでいいのか,,,,,"
















日本人って、包装紙そっとあけますよね〜?

テープも、そっとはがして、包装紙が破れないように
気をつけますよね〜? 
それから、きれいにたたんで、リボンも、クルクルって
巻いて、 特別な場所に、取っておきませんでした?

少なくとも、私も私の姉も、そうしてます。


カナダに来て、あのビリビリーって瞬間見たとき、
わたしびっくりでした。


"あァァァ〜。あとから使えないじゃんっ。"って。














 靈氣, を学んでからは特に、自分の健康を管理することが、
地球を管理することにつながるんですっ!ってことを
教え始めました。

不必要なゴミを増やすのは、教えに基づいてない〜〜〜!

エニウェイ、
この際、日本のやり方でいっか〜。


お金あげようっと !


そしたら、ショッピングにいくガソリンも使わない、
同じギフトを買う心配もない、
不必要なゴミも増えない、
主役は、そのお金を、自分の好きなものを買う資金
に足しが出来る。
など、など、など。


でも、ちょっと工夫してみよう。

   お札にアイロンをかけて、シワをのばします。


   オリガミ、しましょう。

   ギフトボックスを作って、誕生石とかいれるんです。
 いや、ダイヤモンドは、勘弁してください。


    こんなバスケットも、かわいいでしょ?

   リボンなんかつけちゃって。


   包装紙でラッピング、ちっちゃなカードも作るんです。


   封筒もつくって、ハートのシールとか貼って。
P。S。
わたし、小ちゃいもの大好きなんです。
ドールハウスの家具とか、レゴの双眼鏡とか、たまりません。



   そして、きれいな色の、薄い紙でゴージャスにラッピングして、
っていうか、この薄紙だと、破られても悔しくない。


ってことで、これが我が家からの恒例のプレゼント。


いやいや、誕生日会は好きなんです。
誕生日会で出る、ゴミが嫌いなんです。




靈氣を始めたきっかけ





2010年、10月27日

何がきっかけで、靈氣をはじめたのですか。


これは、毎回クラスの時には聞かれる質問です。

思い返すと、多分、靈氣を始めたきっかけは、私が4歳のころ、当時39歳だった父が、医療ミスで命を失ったときから、始まっていると思います。
のことを学び始めたのは、この頃だと思います。

母は、昔病院で栄養士をしていたことや、料理研究家だったこと、
そして、父の不運な死があったこともあり、私たち姉妹は母に、
「たくさん笑って、いい食生活をすることで、健康は保てるよ。
お医者さんも人間だから、彼らがミスすると、命に関わることもあるのだから、
自分の健康は、自分で管理しなさい。」と教えられました。

母はそれはそれは、よく笑う人で、娘であるこっちが
しらける時も、しょっちゅうでした。


私が高校の時、進路を決める際に、
「人間の体のこと、きちんと学んでいれば、自分が母親になった時に、
自分の家族を守ることが出来るかも。」と思い、東京女子体育大学で、
健康保健と体育の学位を取り、高校・中学の教員免許を取りました。
のことを学び始めたのは、この頃からです。


それから、母も不意な形で亡くなり、自分自身もすっかり壊れかけて
しまったと同時にに、私の精神世界への興味がそれまで以上に高まり、
死んだらどうなるんだろう、お母さんが恋しいなぁ、という思いから、
どうやったら、魂の世界と交流が出来るんだろう、と探りました。
のことを学び始めたのは、この頃だと思います。




それから、いろんなことがあり、2001年に結婚して、
自分の家族を築き始めたのです。

2002年に産まれた長男は、とっても健康な赤ちゃんでした。


2004年に産まれた二人目は、3ヶ月のころから、アトピーが
出始めたのです。


これが、3ヶ月くらいのころで、産まれてから、毎日ウンチをすることが
出来ず、長い時は、13日もウンチが出ないこともありました。
毒素が、体から排出出来ず、皮膚から滲み出て来ていたのです。
(2004年、6月)













予防注射の副作用で、アトピーがひどくなった頃。
(2004年, 9月)














一時期、肌の調子が良くなったのは、漢方やホメオパシーを使い始めて、定期的にウンチが出るようになったからです。
(2004年、10月)















これは、一度高熱が出た時に、アトピーがものすごくひどくなり、
顔全体が、割れて、黄色い汁でカピカピになってしまったのです。
この写真は、一番ひどい時からして、すこし落ち着いた頃で、
一番ひどい時は、悲しくて、写真を撮ることも出来ませんでした。
皮膚の専門家に連れて行っても、抗ヒスタミン剤か、ステロイドクリームでしか
治療出来ませんよ、と言われました。
その考え方が理解できなかったのです。
(2005年、4月)














父を医療ミスで亡くし、母は常に栄養のことを教えてくれていた
こともあり、民間療法でのアプローチに目を向けたのは、
とても自然なことだったと思います。


抗ヒスタミンで、かゆみをおさえること、
ステロイドクリームで、肌のあれをおさえるという医者の考え方が、
全く理解が出来ず、なんで、あんなに賢いお医者さんたちは、
症状を抑えることに目を向けて、症状の根源を治療することを
考えないのだろう。 症状を一時的におさえたって、根本的な
原因を突き止めないと、治ったことにはならないじゃない。


その頃は、子どもを連れて、買い物に行ったり、遊び場に連れて行ったり
すると、
「お医者さん連れてった?」
「これって、ひどい火傷?」
「なんていう皮膚病なの?」
「感染しない?」
「このクリームがいいわよ。」
「あの方法は試した?」


などなど、会話は、常にこの子のアトピーの話になり、
私も頭が一杯になって、ノイローゼ気味になり、周りの人は、
私のことを、’子供のことを面倒見ない、ダメなママ’だと思っている
様な気分すらして、外に行くのもいやになった時期でした













この子の肌は、夜になると痒くなり、シーツに顔をこすりつけて、
シーツは血のシミだらけでした。
なにか、体に合わないものを食べると、すぐに肌が割れて来て、
一時は、リンゴとお米、それから、サンライダー(漢方)の食べ物しか
食べれない時もありました。
(2005年、5月)














この頃に、日本人の、ヒーラーと呼ばれるきみさんに、ヒーリングを
してもらった時に、すごい改善が見られて、
「きみさんに出来ること、私も出来るようになれないかな。」
と相談したら、
「氣を使ったヒーリングの土台は、靈氣なので、靈氣を習って毎日
治療してあげたらどうですか?」と提案されました。


そっか、「靈氣」か。
なんか、漢字からすると、おどろおどろしいし、
真光さんとか、新興宗教とかじゃないかなーと思いつつ、
調べてみると、そんな感じもしないので、早速
西洋レイキというものを習ってみました。
 (2005年, 10月)













まだ、肌が割れたりしていたけど、なんか調子が
良くなって来ていてました。その西洋レイキの先生から、伝統的な
靈氣と知られていた直傳靈氣を紹介されたのです。

直傳靈氣を習ったときには、手の感覚がとてもはっきり
して来て、それからは毎晩治療をするように
なりました。
(2006年3月)













毎晩治療を始めて、2ヶ月後、
おでこのあたりとか、なんとなくスッキリしてますよね。
(2006年5月)














毎晩、2ヶ月間、消化器系を中心に、靈氣治療をした結果、
だんだんと、食物アレルギーもなくなって来て、肌の調子も
良くなってきました。
この写真の2日後に、3人目の子どもが産まれました!
(2006年、5月)













これは、5ヶ月間、毎晩靈氣治療をした結果、
アトピーの跡形もなくなったころです。















肌の調子は、完全によくなり、アトピーが発症することは全くなくなりました。
(2007年1月)














私が靈氣を始めたきっかけは、我が子のアトピーをとにかく
治してあげたい一心だったのです。


アトピーは、とても治りにくい病気なのです。しかも、ステロイドを
使い始めてしまうと、本当に治りにくく、しかも中毒になってしまい、
後から恐ろしいことになってしまうと、わかっていたので、
この結果をこの目で見たとき、
「たくさんの人に、靈氣の存在を知って欲しい!」と思いました。


こんなにシンプルな治療法って、他にないと思います!


2007年、師範格になり、2008年師範になり、
今も毎月、靈氣のクラスを行って、楽しんでいます。


月曜日から、金曜日は、毎晩6時半と8時半に、お客様がきて、
私の靈氣部屋で、おもいっきりいびきをかいて帰られます。

娘が、小さな体をもって、私に教えたかったこと、それは、


「天職を持つって、こういうことだったんだ。」