っていう会話は、私にとってはとてもNewな会話。
でも、お友達はもう5年もブログ書いてるって言ってるし、
そういえば、会社勤めしてたとき(1994年から1999年)、
同僚で、なんか書き物(ブログ)やってる人居たなー、って思うと、
15年???
昔は、人のエッセイ集を本屋さんで、買って読む、
っていうのが、今の、ブログになってるのかな?
私も実は、2007年の10月に、一度ブログを始めてるんです。
英語と日本語で。
でも、2回書いたのみで、3日坊主どころか、2日くじけ。
子供が、4歳、2歳、6ヶ月、という年齢で、とてもじゃないけど、
時間がなかったんですね。 というのが言い訳です。
でも、今回、またブログやってみよう、って思ったのは、
カナダでケータリングをやっている、お友達のブログの
おかげ。(お弁当屋さんの日記)
このお友達のブログが、また面白いんです!
お弁当屋さんの日記、のはずなんだけど、話がズレるズレる。
スケート研究家の日記って言っても良いくらい、
スケートの話がすごく詳しく載っていて、
日頃思ったこととか、飾り氣無しに書いているのが、
面白いんです。
とにかく、もう一度、トライしてみよう!と思い、この2010年10月に
初めて見たら、(最初は英語のみだったのですが)、書くことの面白さに
はまってしまいました!
実は、私の父、この前33回忌を迎えたのだけど、
私が産まれるずっと前から、ブログっぽいことやってたんです。
私の父は、私が4歳半の時に、不慮な医療ミスで命を失っている
のだけど、なぜ、私がこんなに父のことを知ることが出来たかっていうと、
「珊瑚」
のお陰なのです。
父は、大学時代の仲間達と、月に一回、「珊瑚」
という題名の、月刊誌を出していました。
父が大学を卒業したのは、計算も出来ないくらい昔の話。(私算数苦手なんです)
柔道部の仲間達と近況報告をしあう方法が、
「珊瑚」
だったそうです。
年に一回、まとめ役を決めて、仲間達が月に一回、何かその月に
思ったことや、近況を書いて、まとめ役に送り、まとめ役はそれを人数分
コピーして、全員に送付する、というのが、
「珊瑚」。
(これって、いまでいうブログみたいなもんですよね〜?)
でも、39歳にして他界してしまった父は、その珊瑚にも多分15年くらい
しか投稿することは出来なかったのだと思います。
その珊瑚は、つい数年前まで毎月休みなく続き、500回記念を持って、
終了になりました。
なぜ、珊瑚が私の父への理解を深めてくれたかというと、
父の仲間たちが協力して(多分、母も協力したのだと思うけど)、
珊瑚がの投稿が始まってから、父が亡くなる直前1975年の6月
までの、父が書いた部分の珊瑚の投稿を、すべてかき集めて、
本の形にし、一周忌の追悼集、題名『夭折』にしてくれたのです。
ちなみに、『夭折」って、ようせつ、って読むんですが、
若くして他界する、という意味なんです。 悲しいけど、きれいな
言葉ですよね。
一周忌の時は、まだ5歳の私、そんな難しい本なんて、読めないし、
興味もなかったけど、いつも自分の本棚には置いてありました。
やっと中学生になり、その追悼集を開いても、まだ読めない。
っていうか、読んでいても楽しくない。 絵本じゃないから。
高校生になっても、やっぱりまだ読めない。
なんというか、大人の視点での文章なので、読んでいても
全く理解が出来ないんです。
大学生になり、長崎から東京に出たとき、お守りのように持っていったのは、
「夭折」。
父は、柔道をすごく頑張っていたらしく、右腕を骨折した時には、
右腕を使わないでいい技に挑戦して、その技のエキスパートになったとか、
という話が「夭折」に載っていて、当時東京女子体育大学で、下手っぴながらも
体操競技で、血と涙の猛訓練に励んでいたころなので、
「私だって、父の血を継いでいるんだ!」って気持ちで、頑張れたのも
「夭折」のお陰でした。
だんだんと、「夭折」の中の父と、自分の年齢が近づいて来て、
「夭折」が読めるようになってきたのはこの頃です。
そして、就職し、毎日残業、飲み会、などなど、忙しい日々を過ごしたあと、
1999年に、カナダにやってきました。
カナダを選んだのは、父が当時勤めていた三菱商事から、モントリオールでの勤務が
あり、海外勤務中に、私が産まれたそうです。
母曰く、私は "Made in NewYork, Born in Montreal" ってことで、当時は、
なんのこっちゃ、わけもわかりませんでしたが、大人になってみると、
「は〜ん、そういうことか。」という感じです。
ということで、戸籍謄本などには、必ず
「モントリオールにて生誕」と書いてあるので、カナダでの記憶は全くないものの、
産まれた国に言ってみたいなぁ、というのは昔からの夢だったのです。
話が元にもどって、1999年にカナダ、BC州にやって来て、
話がどーんと飛び、結婚し、子供が生まれ、また子供が生まれ、そしてまた子供が生まれ、
5人家族になりました。
もちろん、「夭折」は、いつも私のそばにあり、その頃には、もうボロボロになり、
表紙ははがれ、輪ゴムで巻いていないと、中身が出て来てしまうようになっていました。
ある日、子育てで、疲れているときに、なんとなく「夭折」に手が伸び、
「あ、久しく読んでないよなー。最後に読んだのいつだっけ。相変わらず、難しくって、読み終わる前に、寝ちゃうんだろうな。」
なんて思いながら、読み始めたら、
読める。
わかる。
感動でした。
カナダのことが書いてあったり、モントリオール勤務時代のことが書いてあったり。
よく考えると、それを書いた当時の父の年齢を、
私は超えていたのです。
そして、遅ればせながら、やっと、どうして、母と父の勇士達が力を合わせて、時間をかけて、わざわざ「夭折」を出版したのか、がわかったのです。
私たち、娘3人に、父がどんな素晴らしい人だったか、伝えるために、じゃないかと、
やっと気づいたのです。30年も経ってから。
私も自分のこと、書いてみようって思いました。
自分の子供達が、大きくなって、私のブログを読んで、楽しんでくれるかなー、
なんて思いながら、いつも書いてるんです。
父も、母も、文章がとても面白かったので、私も書けるんじゃないかなー、
なんて思いながら。