Sunday, January 16, 2011

大きな岩、大きな木、それとも滝?

12月7日、2010。
今年で最後の 靈氣の練習会 がありました。

練習会は、こーんな感じです。


この練習会、ほんとに素敵な人達の集まりで、
一緒に過ごせる時間に感謝の気持ちでいっぱいになります。

今回は、年末ということもあってか、17人 の直伝靈氣受講者と、
一人の体験ゲストの参加で、会場の氣は、癒しの氣で充満でした!


こんな感じで、「そこに居るだけで気分がいい。」っていう
場所は、静かな森の中の他、街の真ん中では、そうそうないと思うんです。


参加者からのコメントでは、このグループはとくに氣が強い、
ということをよく聞きます。

"賛成するような、不賛成するような。。。"



私は、今まで色んな靈氣グループの練習会に参加してみましたが、
このグループは特に、なんというか、特別なハーモニーがあるような
感じがするんです。
だから、氣が強いような感じがするのかなー。


それとも、知らない人の集まりに一人で参加するのではなくて、
私が個人的にこのグループの全員を知っているからか。


でも、どの靈氣グループに参加しても、エネルギーの源は宇宙の氣であって、
氣の強さは同じはずなので、強さに違いが出るっていうのには、賛成出来ないなぁ。



でも、わかったような氣がします!!! 

直伝靈氣のクラスでは、必ず、
「自分が相手を癒している」という思いで、施術はしない事、と
教えられています。


施術の間は、何も考えないこと、


無心でいること。」

と教えられます。


「この女性の気分が良くなりますように。」とか、
「この人の病気が、私の靈氣の施術で良くなりますように。」とか、
「私がもっと頑張って、氣がもっと通るようにしよう。」とか、
そんなことを思いながら施術をすると、必ず、氣が漏電してしまって施術側は、
そのうち疲れ来てしまいます。


そういうプラクティショナーが多いのは、事実です。


何も考えずに、無心で施術が出来るプラクティショナーは、
自分が疲れることなしに、漏電することなしに、
施術をする事ができるんです。


靈氣の教えは、しばしば日本の神道の教えが基盤になっています。 

神道は、自然の教えが源である教えで、宗教ではありません。


何千年も前、日本が大和であった時代、人々が病気になったら、
癒しを求めて自然の中へ行っていました。

病人が、森の近くの村に住んでいるのなら、森の中へいき、
その森で一番大きい木を探し、病気が良くなるまでその根元で時間を
過ごしたそうです。
木は、空へ向かって枝を伸ばし、
地球へ向かって根を伸ばし、
何も考えずに、太陽と地球の間で、
氣の交換を行って浄化を続けます。

病人が、海の近くの村に住んでいるのならば、
浜にある一番大きな岩を探し、病気が治るまで
その元で、時間を過ごしたそうです。
岩は地球の一部です。
太陽のエネルギーをいっぱい充電し、
地球とつながりながら、浄化を続けます。

病人が、滝の近くにある村に住むのならば、滝の元へ行き、
病気が治るまで、滝のもとで時間を過ごしたそうです。
雨つぶを厚め、流れをつくる滝。
宇宙からの恵みを、休みなく授かり、
地球へと流して行く、滝。



これが神道の癒しなのです。
大きな岩も、大きな木も、滝も、人を癒そうなどとは、全く思いません。
ただ、無心で氣が流れることをもくもくと行っているのです。


人を癒そうと思わずに、無心で氣の流れを授けることで、
自然に癒しが始まるのだ、これが、靈氣の源なのだと、私は思うのです。


自然には、必ず流れがあります。
この、宇宙と地球の間の氣の流れが、靈氣治療の流れなのです。


癒しの氣って言うのは、靈氣の施術者から流れるのではなくて、
施術者が、宇宙と受けての間のパイプになることによって、宇宙の氣が
流れるのです。




ということで、
靈氣の施術者として、、、


あなたは、太陽の氣をいっぱい充電して、
地球とつながっている、
「大きな岩」ですか?



それとも、大きく呼吸して空気を洗浄し、
力強く地球に根を伸ばす、
「大きな木」ですか?


それとも、宇宙からたくさんの慈愛を受けて、
それを地球全体に流しだす、
「滝」ですか?


私は、靈氣の施術の時は、
「私は大きな木。星まで届くくらい枝をたっくさん伸ばして、
力一杯地球の核まで届くくらいの根っこで、母なる大地と
つながる、大きな木。」





こう思うと、すごく、どっしりします。





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