Friday, December 2, 2011

40歳

40歳。


40歳になって、1ヶ月半がたちました。自分が40歳になったって、
結構な驚きなんです。


”40年も生きて来たんだ〜!”って言うべきなのか、
”40年しか生きてないんだ〜。”って
言うべきなのか、なんだかよくわからない。

こんなTシャツのデザイン見つけました。
”私は40歳ではありません。22年経験を重ねた18歳です。”
西洋らしい、言い回し!


とにかく、私にとっては、40歳になるってことは、重大な事実なんです。
っていうのも、4歳半の時に亡くなった父は、39際だったので、
”39歳は、死期に近い年齢”っていう変な思い込みがあるんですね。
変ですよね、たいていの人達が、50、60、70、80まで
生きているのを毎日この目で見ておきながら、心の奥底の、
「39歳が死期に近い歳」っていう思い込みを消しきれてないんです。
幼少の頃からの思い込みっていうのは、こんなものなのでしょうか。


幼少だったので、死というものが、なんなんだかよくわかってなかった
けど、他の家族構成とはちょっと違うんだよな、ってことは、わかってました。



小さい頃のこんな思い出があります。


私が小さい時、私の母に年齢を聞くと、いつも「35歳よ!」って
言ってました。いつ聞いても35歳って言うけど、かなりノンビリ屋だった私は、
それを鵜呑みにしていました。

ある日、小学校からもらって来た書類に、母が色んなことを記入しなくては
いけなくて、住所や電話番号、健康状態や誕生日、そして年齢も。



母は、年齢の所に「42」と記入しました。



そこで私は、「違うよ、35でしょ?」
母は、「真理ちゃん、本当はね42歳なのよ。」

私は、「え、でも、この前35歳って言ってたよ。なんで突然そんなに年取るの?」
(はい、私はのんびり屋の上、算数が特に苦手でした。)
母は、「混乱させちゃったねー。冗談だったのよ、本当は42歳なの。」



私、本気で大泣きしました。




 ”えーーーー!年寄じゃないー。もうすぐ死んじゃうの?” って。




死のことを理解していなかったとは言え、死ということは、なんとなく
「消えてしまうこと」って理解していて、自分の母も消えてしまうんじゃないかっ
ていう恐怖があったんですね。



母の実年齢が42歳って知った時、「ってことは、パパの年齢よりも年取ってる」
っていう事実に本気でショックを受けたんです。その上、
「ってことは、ママがこのまま年取り続けて、もしどこかでママとパパがまた
出会うことになったら、ママは年寄り過ぎて、パパがママのこと気づかないかも
しれない。どうするんだろう。」
ってことまで考え込んで、母に相談したのも覚えています。


天真爛漫な母は、冗談で取っていて、
「そうねー、どうしよっかー、どうしよっかー!」って楽しそうに
話してましたし、私がそうやってショックを受けたことを
「真理に本当の年齢話したら、泣いちゃったのよ〜!ケラケラ〜!」って
友達に冗談まじりで話していましたが、私の頭の中では





「ってか、真剣なんだけど。」。。。


とにかく、のんびり屋だった私は、真剣に話せば話すほど、冗談で取られてしまいがちで、
「夢みてたんじゃな〜い?」とか、「想像力豊かね〜!」で、済まされ、
「やっぱ、夢かー。」で、説き伏せられることが多かった。


いつぞやのオリンピックでは、熱を出して一人でおじ宅の居間で
寝込んでいたら、鈴木大地が金メダルを取った瞬間をとらえ、高熱を押して、
お迎えのおじいちゃんとこまで歩き、親戚が集まっているところで
「日本が金メダル取ったよ〜。」って伝えに言っても、
「また、真理ちゃんが夢見てるから〜。」ってさっさと会話が終わってしまった
時には、さすがに、

「夢、ぢゃない。。。」って言いましたが。


話を元に戻しましょう。




それから時が経ち、自分の姉が39歳になって、この年に姉が死んじゃうかも
しれない、って心配しました。




それから、自分の義兄が39歳になって、この年に義兄が死んじゃうかもしれない、
って心配しました。


それから、主人が39歳になって、この年に主人が死んじゃうかもしれない、
って心配しました。


それから、もう一人の姉も39歳になり、この年に姉が死んじゃうかもしれないって
本当に心配しました。

そして、私が39歳になり、なんなく40歳になりました。



"ってか、こんなもん?"
”ただの取り越し苦労?”


39歳で亡くなるのは、若すぎるってよく聞いてたけど、実際39歳になるまで、
どんなに若いってことかよくわかってなかったんですね。


39歳になって、ようやっと”39歳で死ぬのは、若すぎる。”って体で
わかりましたが、同時に39歳で死のうと死ぬまいと、これは人生の長さでは
なくって、質なんだ、ってことを、私のたましいが理解したんです。


魂というと、なんかおどろおどろしくって、知ったかぶっているような感じ
なんだけど、これ、ほんとに体で理解するんじゃなし、頭で理解するんじゃなし、
魂なんですね、やっぱり。


人の生と死についての本を読みあさったり、感動する言葉集なんかも読みあさった
時期があります。そんな時、いつも、「やー、わかるわかるー!」ってわかっていた
ような気分になっていたけど、ここに来て、実際
全然わかってなかったんですねー。
頭で理解しているうちは、理解していないってこと。


本当に理解出来た時は、で理解した時、だけなんじゃないかって。


「心魂つくして」とか、高校の時によく聞いていた「気魄と情熱」って言葉、
きっと深い意味があるんだよなーって。


父の39年という人生は、短いとは思うのだけど、彼の父親としての役目は
まだまだ続いていると思うんです。だって、35年たった今、父から学んだことに
氣づいているから。多分、生きている父だったらこんな大切なこと、教えてもらえ
なかっただろうなって思うと、若くして死ぬのにも意味があると思えるものです。





どれだけ長く生きるかよりも、

どう生きるか。




長く生きれば生きるほど、エゴというものが積み重なって来て、自分よりも若い人や
経験の少ない人を、私たちは見下しがちになってしまいます。

でも、靈氣の教えでは、長く生きれば生きるほど、そんなネガティブな思いや
態度を一枚一枚はがして行って、長く生きれば生きるほど、エゴがなくなる、
という教えなんですね。



わたしたちにエゴがなければないほど、平和につながるんじゃないかな。


今日も、一枚はがして行こっと。





こんな感じ。








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